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福知山城天守閣【福知山/観光】丹波平定に成功した明智光秀が丹波の拠点として築いた城

丘の上の城は福知山市のシンボル
築城当初の面影を残す石垣に着目

福知山城は、丹波平定に成功した明智光秀が1579年ごろに丹波の拠点として築いたことから始まります。以来、城主が交代しながら改修と増築が進められ、有馬豊氏(ありまとようじ)の統治時代(1600~1620年)にほぼ完成したと考えられています。1669年に朽木植昌(くつきたねまさ)が福知山藩主となって以降、1869(明治2)年まで朽木氏が13代にわたり城主を務めました。
ところが、1871(明治4)年の廃藩置県、1873(明治6)年の廃城令により、福知山城は天守周辺の石垣と銅門(あかがねもん)だけ残して、その大半が解体されました。
「福知山市のシンボル」としての城再建の機運が高まったのは、廃城から約100年後にあたる1970年代半ば。その後、「瓦一枚運動」と呼ばれる市民の寄付などもあり、江戸時代の絵図や天守平面図をもとに1986年に復元されました。
3層4階建ての大天守(天守閣)と2層2階建ての小天守から成り、天守閣内部は郷土資料館として一般公開。3、4階に展望台が設けられました。
2017年、日本城郭協会の「続日本の100名城」に選定され、名城に仲間入り。2018年11月には、羽生善治竜王に広瀬章人8段が挑戦する将棋のタイトル戦「第31期竜王戦七番勝負 第4局」の舞台となりました。城で開催されたのは、竜王戦史上初でした。

地形・地理面からみた特徴

地形からみた福知山城の特徴は、由良川と土師川(はぜがわ)が合流する地点に伸びる舌状の丘陵上(海抜約43メートル)に築城されたこと。丘陵上にあることから「平山城」に分類されます。

丘陵は土師川の段丘面にあたり、それが突出した形で残ったため、三方が崖状となっています。こうした地形を利用していることから、福知山城は土師川と由良川を「天然の堀」とする要塞で、城下町周辺の河川を活用した堀で囲む「惣構え」の城郭であったようです。
地理面からみれば、明智光秀が活躍した戦国時代の福知山地方は、但馬・丹後・播磨・山城への交通の分岐点でした。そのため福知山城は、軍事・戦略上、要衝の地に位置する城であったと考えられています。

城の東側に位置する駐車場から撮影。 平地から見上げれば、標高約40メートルの小高い丘の上に築かれた城であることがよくわかる。
福知山城の西に位置する伯耆丸(ほうきまる)公園(有馬伯耆守屋敷跡)から撮影した福知山城。左が小天守、右が大天守(天守閣)。左側手前の白い横長の建物は銅門番所。
天守閣の撮影は手前に広いスペースのある西の方向からがベスト。光秀時代の石垣と、有馬豊氏時代に増築した石垣が並ぶ様は見もの。

福知山城天守閣石垣の特徴

特徴1【野面積み】

大小の自然石と割石を加工せずに豪放に積み上げた「野面(のづら)積み」と呼ばれる技法でつくられている。織田信長が築城した安土城(1579年完成)で大成された技法だ。未加工の自然石を使っているので石の大きさや形はばらばら。そのため一見乱雑で頼りなげに思えるが、石材は奥に長く、見た目以上に強固に組み上げられている。

未加工の自然石を積み上げただけの石垣なので、石の大きさと形に統一性がなく、石同士がかみ合っていない。そのため隙間や出っ張りが多いのが特徴。隙間には小石が押し込むように積まれている。

特徴2 【転用石の多用】

福知山城の最大の特徴は、天守閣の石垣に大量の「転用石」が用いられていること。転用石とは、本来違う目的で使用されていた石が石垣に流用されたもの。福知山城天守閣の石垣の多くは光秀時代につくられたもので、五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)をはじめ、仏石、灯籠などの石造物が大量に使われている。その数は500以上。少なくとも300基程度の石塔が近隣の寺院で破壊されて集められたという。これほどたくさんの転用石を間近で見られるのは福知山城だけだ。

未加工の自然石のなかに、明らかに石塔の一部だとわかる長方形の石や台座が混ざっている。これらが転用石だ。内訳は五輪塔の地輪が最も多く約250点。2番目に多いのが宝篋印塔の基礎で約35点。
出土した転用石は銅門番所の横など数カ所に集めて展示されている。転用石は光秀の福知山城築城の様子を伝える数少ない資料のひとつであり、資料的価値の高いものだ。
石垣フェチが必ずチェックする隅部(角っこ)。石垣が上部にいくにつれ急角度になり、反りを描いているのがわかる。
隅部は大きな石がきれいにラインを揃えて積みあげられている。これも福知山城石垣の見どころのひとつだ。
復元された土塀には、防御用の小窓である狭間(さま)がきちんと設けられている。内側から外側に向かって円形・三角形・正角形・長方形などの穴が開けられており、戦闘の際はそこから弓矢や鉄砲などで攻撃した。狭間は敵の鉄砲や弓矢を防ぐために外側に向かって狭くなっている。縦長の長方形の狭間は弓矢を射るためのもの。三角形の狭間は鉄砲用の小窓だ。
天守閣の東側に建つ城門は1986年に再建されたもの。天守閣から撮影すれば門がフレームになり、背景を長方形に切り取って見せてくれる。
天守閣入口手前にある大きな井戸「豊磐(とよいわい)の井」は光秀が城主だった時代に掘られたもの。井戸の深さは50メートルあり、 城郭内の湛水井としては日本一の深井戸だ。天守閣は海抜約43メートルの高さに建っているので、井戸底は海面下7メートルまで達していることになる。現在も海抜30m地点までは水があるというから、400年前の井戸堀り技術に感心する。余談だが、この井戸には抜け穴があり、二の丸の北側の対面所(主人が来客に応接するための座敷)裏にあった横穴に通じていたといわれている。
天守閣展望台からの眺望。北東の方角を見れば、福知山城に向かって流れてきた由良川が城の手前でほぼ直角(城から見れば西側)に曲がっているのがわかる。氾濫を防ぐため由良川の流れを変える工事を命じたのが明智光秀だ。由良川の手前の建物は、国土交通省近畿地方整備局福知山河川国道事務所。
展望台から北西の方向を見渡す。由良川に架かる大きな橋は音無瀬橋(おとなせばし)。その上流(写真では右手)に見える雑木林は、光秀が整備したと伝えられることから「明智藪」と呼ばれている堤防。野鳥の営巣地としても知られている。
天守閣展望台から西の方向を眺める。右側の白いビルは福知山市役所。その左側に見える小高い丘は伯耆丸(ほうきまる)公園。伯耆丸は、本丸・二ノ丸へ続く細長い丘陵を切り通して独立させた曲輪(石垣や土塁で囲んだ一区画)だった。有馬豊氏の重臣・有馬伯耆守の屋敷があったことから「伯耆丸」と呼ばれる。有馬氏統治時代には、伯耆丸と本丸を結ぶ橋が架かっていたという。
名称福知山城天守閣
住所福知山市字内記5
電話番号0773-23-9564
開館時間9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日2021年1月11日(月曜・祝日)までは年中無休
2021年1月12日以降は、12月28~31日、1月4~6日
入館料大人330円、こども(小・中学生)110円

※障害者手帳をお持ちの方とその介護の方1名は入館料金の半額となります。
※「福知山光秀ミュージアム」(2020年1月11日~2021年2月7日までオープン)との共通券

共通券料金
大人700円(別々に購入すると830円)
こども(小・中学生)300円(別々に購入すると360円)
駐車場:ゆらのガーデン駐車場(無料:約70台)


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