福知山きちゃった!プチ旅観光MAP お出かけ・観光

440年前の転用石が物語る歴史|ふくたん編集部の「プチっと解説」

福知山城最大の特徴は石垣の転用石の多さ
光秀が転用石を多用した理由は諸説あり?

福知山城の最大の特徴は、なんといっても天守閣の石垣に多くの「転用石」が使われたことです。五輪塔や、仏塔の一種である宝篋院塔(ほうきょういんとう)が石垣の石材として利用されています。石垣に組み込まれた転用石の総数は約500点以上。最も多いのが、供養塔である五輪塔の地輪(基部にあるブロック状の部材)で約250点、次に同じく供養塔に使われる宝篋印塔の基礎が約35点。少なくとも300基程度の石塔が破壊されて集められたと考えられています。 これらの転用石はすでに加工されているので、石垣の石材として適していたのでしょう。なお模様や戒名が掘られた部分が下側または外側になっているのは、水がたまらないようにするための工夫だったと考えられます。
石垣に含まれている転用石は181点で、そのうち約6割を占める94点が天守閣の南側に集中しています。光秀時代に築かれた石垣です。

福知山城では、出土した転用石が展示されているので、近くで見ることができる。

光秀は築城時に近隣の寺院から石塔を集めました。
転用石を用いた理由は、
① 石垣に利用する大量の石材が近辺になかったから 
② 短期間に築城するため
といわれています。つまり、突貫工事だったので近隣の寺社の石塔を徴用したというわけです。
このほかに「旧地元勢力の権威を否定するため」「新領主である光秀に従わない寺社勢力を屈服させるため」という説もあります。福知山北部にある威光寺(いこうじ)には、光秀は反抗する寺社に対して建物を壊し、石塔を引き倒して石垣に用いたと伝える古文書が残っているそうです。そのいっぽうで、石材を徴用した代償として共同墓地に石塔を納めたともいわれています。
そういえば、光秀の主君である織田信長が足利義昭のために築いた将軍御所(旧二条城)と、自身の安土城の石段にも石仏や石塔部材が使われたといわれています。光秀はその当時心酔していた信長の城づくりをまねて石仏を石垣に用いたという推測もできるでしょう。
そのいっぽうで、石仏には城を呪術的に守るという意味合いがあり、「光秀は城を守護するものとして福知山城の石垣に石仏を使った」とする説もあります。また、墓石を逆さに使うことで領土の安寧を願ったと指摘する識者もいます。なお、逆さの墓石は、文字など掘っている部分を下に向けることで雨水が溜まらないためだそうです。
さらに、天守閣石垣の目立つ場所に転用石が使われているのは、「石材を提供した寺院への感謝を示すため」という説もあります。この説を採用するなら、光秀は抵抗する寺社は力づくで従わせ、協力的な寺社にはアフターフォローを施したということになります。
こうして光秀が転用石を多用した理由には諸説あることがわかると、転用石の見方が少し変わってくるかもしれません。当時の時代背景を知り、光秀という人物像を多角的にみることで、歴史はさらにおもしろくなることでしょう。

明らかに石塔の基礎部分とわかる石材が多く混ざっている。

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