福知山きちゃった!プチ旅観光MAP お出かけ・観光

「広小路通り」の歴史と特徴|ふくたん編集部の「プチっと解説」

江戸時代に防火のために設けられた火除地
広小路通りは城下町の経済の中心地だった?!

江戸時代初期、福知山城下町は3度も全焼。たまりかねた福知山藩は延焼を防ぐために、東西約143メートルにわたり、道路幅を約23メートルに拡張して火除地を建設し、「広小路」と名づけました。広小路とは、幅の広い街路のことです。
広小路通りの堤防側には、もともと由良川の船着場「下船渡(げせんど)」があり、人や物資が集まる水陸交通の要所でした。そのため広小路通りには船屋や問屋、旅客相手の茶店、旅館が軒を並べ、この界隈は城下町の経済の中心地となったのです。
明治時代には芝居小屋ができ、歓楽街へと変貌。1916(大正5~7)年にふたたび道路の拡張工事が行われ、三丹(丹波・丹後・但馬地域)屈指の商店街へ発展していきました。
現在も通りの両側には、老舗飲食店や旅館、映画館、和菓子店などが並び、御霊神社とあわせて観光コースとなっています。

このあたりに「下船渡」と呼ばれる船着場があったことを示す由良川堤防沿いの看板。

芝居小屋や映画館が娯楽の殿堂
北近畿随一の繁華街だった広小路通り

明治時代、広小路通りには演劇場「常盤館」(のちに「福知山第一映画劇場」に改称)があり、歌舞伎や新劇などの興行が催されました。御霊神社の西には「福知館」(1903年開館、1932年焼失)という芝居小屋もあり、映画館と芝居小屋は当時の娯楽の殿堂でした。
その後、福知館の跡地には、映画館「福知山第二日活館」(1938年開館)が建設。広小路は大型の娯楽施設が集まり、買い物や食事のできる「北近畿随一の繁華街」として1970年代半ばまで栄えました。

1954年当時の広小路。当時催されていた「商工まつり」の様子がわかる貴重な1枚。ところで中央の山車に乗っている巨大な動物はクマ?【写真提供:ヨシヤ】
「大日活映画山陰封切場」(右から左へ読む)は、かつて広小路にあった「福知山第二日活館」。映画『大菩薩峠』(1960年10月18日公開)の題名が掲げられていることから、写真は1960年10月から1961年上半期当時のものだと思われる。【写真提供:ヨシヤ】
広小路を練り歩くチンドン屋さん。チンドン屋とは、派手な衣装で鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らし、道行く人の注目を集める広告宣伝スタイル。手前の男性が掲げている広告看板に「廣(広)い通りの広小路。買い物すんで食事も出来る」と記されていることから、道路幅の広さと、買い物と食事ができることが広小路の魅力であったことがわかる。【写真提供:ヨシヤ】

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