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光秀さんは福知山で何をしたの?|ふくたん編集部の「プチっと解説」

川の流れを変えただけではない
明智光秀が福知山で行なった政策

明智光秀は福知山では善政を行ない、城下町福知山の基礎を築いた人物として親しまれています。では、具体的に何をしたのでしょうか?

明智光秀が福知山で行なった政策

「福智山」(福知山)というネーミングを考案

光秀がこの地を平定し、城を築いた際、「丹波なる 吹風(ふくち)の山の もみじ葉は 散らぬ先より 散るかとぞ思ふ」という和泉式部の和歌をもとに、自らの姓に含まれる「智」の字を当てて「福智山城」と名づけたといわれています。「智」がのちに「知」になり、「福知山」と呼ばれるようになったのです。光秀は福知山の名づけ親だったのです。

由良川の治水事業

福知山市内を流れる由良川は、福知山盆地の出口が狭く、下流部の勾配が緩慢であるため、大雨になるとたびたび洪水をもたらす川でした。
明智光秀は福知山に新たに城下町を開くため、由良川の氾濫を食い止める治水事業に挑みました。由良川に長さ約500メートルほど堤を築き、堤に濁流の衝撃を和らげる藪(明智藪)を設けたと伝えられています。こうして由良川の川道を付け替えたのです。また、川筋を広げ、川ざらえを指示しました。
その後、江戸時代の中ころになると現在の音無瀬橋の上流と下流に船着場が設けられ、福知山は港町として繁栄していきます。その基礎を光秀がつくったといっても過言ではないでしょう。

地子銭(地税)の免除

朝暉神社の文書のなかに「光秀公が城下町をつくる際、百姓が離れていき、荒れた田が残された。そのため新しく入った町人に町百姓として管理してもらった。収穫した籾(もみ)は納めるが、屋敷年貢は納めない」という記述があります。
光秀は領民に定住してもらうため、領民に課せられていた地子銭(ぢしせん)を免除したのです。
江戸時代の寛政期(1700年代末)に書かれた『地方凡例録』によれば、光秀は「本能寺の変」で織田信長を討ったあと、京都や大坂、堺、奈良などすべての都市の地子を免除しています。つまり、主要都市で「税制改革」を遂行したのです。明智光秀は”領民ファースト”を信条とする政治家だったようです。

城の縄張りと城下町割り

城の縄張りとは、城の設計のこと。城下町割りとは、城郭を中心に,武家地,町人地,寺社地などを構成することです。城郭と城下町が完成するのは、1600年に入封した有馬豊氏の統治時代ですが、その基礎をつくったのが光秀だったのです。

このように光秀は福知山に新しい風を吹き込み、改革を推進したのです。功績をたどってみれば、光秀がリーダーとしてすぐれた手腕は発揮したことがわかります。

光秀が福知山で行なった由良川の川道の付け替え(出典:国土交通省)

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▼ 第2回・福知山城周辺エリア
前編(午前中) / 中編・後編・番外編は11月~12月に公開予定!


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